セントライト

セントライト
1941年5月18日東京競馬場
欧字表記 St. LITE
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 1938年4月2日
死没 1965年2月1日(28歳没・旧表記)
ダイオライト
フリッパンシー
母の父 フラムボヤント
生国 日本の旗 日本岩手県雫石村
生産者 小岩井農場
馬主 加藤雄策
調教師 田中和一郎東京
厩務員 山崎友次郎
競走成績
タイトル 中央競馬クラシック三冠(1941年)
JRA顕彰馬(1984年選出)
生涯成績 12戦9勝
獲得賞金 87400円
勝ち鞍 横濱農林省賞典4歳呼馬(1941年)
東京優駿競走(1941年)
京都農商省賞典4歳呼馬(1941年)
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セントライト1938年 - 1965年)は日本競走馬種牡馬である。1941年に日本競馬史上初のクラシック三冠馬となった[注 1]主戦騎手小西喜蔵。種牡馬としてもオーエンス、オーライト、セントオーと3頭の八大競走優勝馬を輩出した。1984年顕彰馬に選出。

兄弟も優秀で、タイホウ(繁殖名大鵬。帝室御賞典目黒記念オールカマー)、クリヒカリ(別名アルバイト、横濱農林省賞典4歳呼馬(現:皐月賞)、帝室御賞典〈秋〉)、トサミドリ(大種牡馬、皐月賞、菊花賞)らがいる。

経歴

デビューまで

1938年、三菱財閥経営の小岩井農場に生まれる。父はイギリスのクラシック優勝馬として初めて日本へ輸入された、2000ギニー優勝馬ダイオライト。母フリッパンシーもイギリスからの輸入馬で、出生時にはすでに11勝を挙げた半兄タイホウ(父シアンモア)の活躍が知られていた。1940年、小岩井農場のセリ市に上場され、出版社非凡閣社長の加藤雄策に3万2200円(1万2200円とも[1])で落札された[2][3]。同9月に東京競馬場田中和一郎の元へ入厩。デビューに向けて調教が積まれた。同期の僚馬には、同じく加藤の所有馬で、当年の牝馬最高額だったブランドソールがいた。小西喜蔵によれば「セントライトの方は、ちょっともそっとした感じで、みんなブランドソールの方がいいように見て」いたという[2]

戦績

春の二冠

1941年3月15日、横浜開催初日の新呼馬戦でデビュー。12頭立て7番人気と低評価だったが、2着に5馬身差を付けて初勝利を挙げた。このとき、単勝払い戻しは法定上限の200円で、不的中者にも7円50銭の特配(特別給付金)が払い戻された[4]。2週間後の同30日、クラシック初戦の横浜農林省賞典四歳呼馬(のちの皐月賞)に出走。同期の最高額馬ミナミモアを抑えて1番人気に推されると、レースでは同馬に3馬身差を付けて優勝を果たした。小西はミナミモアに勝ったことに非常に驚いたといい、「ほんとうに強いなとおもったのはこのときからだ」と語っている[1]。本競走は翌年に弟のアルバイト[注 2]が優勝して兄弟による連覇を達成、1949年にはトサミドリも優勝し、史上唯一の記録である三兄弟による同一クラシック競走制覇を達成している。

なお、デビュー前には、仕上がりが早かったブランドソールを横浜から使い、セントライトは4月の中山開催から使われる予定だった[5]。しかし2月末の調教でセントライトがブランドソールを抑えていたことや、加藤の強い要望があってセントライトの方が先に使われた[6]。もしも厩舎での見込み通り事が運んでいれば、横浜農林省賞典四歳呼馬への出走機会はなかったことから、小西はこれについて「運命的」だったと語っている[6]

その後は中山開催の2戦を連勝。地元東京での初出走となったハンデキャップ競走では58kgの斤量を背負い[7]、アタマ差で2着となり初の敗戦を喫したが、東京優駿競走(日本ダービー)への一叩きとして臨んだ古呼馬戦では、当年秋の帝室御賞典(天皇賞の前身=のちの「天皇賞(秋)」)に優勝する5歳馬エステイツを破って勝利を挙げた。

東京優駿競走の決勝線上。
小西は『優駿』誌に寄せて「かういういひ方をすると生意気さうに聞こえるかも知れないが、セントライトの優駿競走制覇は、事実、文字通りの楽勝であった」と述べた。

5月16日の東京優駿競走は、前夜までの降雨の影響によって重馬場となった。セントライトは横浜で破ったミナミモアに1番人気を譲って2番人気、中山四歳牝馬特別(のちの桜花賞)を制して来たブランドソールが3番人気であった。レースでは道中3番手を進むと、最終コーナーで小西が手綱を抑えたまま先頭に立った[8]。さらに残り200メートル付近からスパートを掛けると、後続を一気に突き離し、2着ステーツに8馬身差を付けて圧勝した[8]。この着差は1955年の優勝馬オートキツに並び、ダービー史上最大着差となっている。小西はこの圧勝劇について「道悪に恵まれたせいもあったには違いない」としながらも、もしも快晴の良馬場で行われていたら、「レコードを少なくとも一つ(1秒)は詰めていただろう」と述べている[8]。小西はこれがダービー初優勝、調教師の田中と馬主の加藤は、いずれも1939年に優勝したクモハタに次ぐ2度目のダービー制覇となった。

史上初の三冠達成 - 引退

ダービーの後は休養に入り、日本競馬史上初のクラシック三冠を秋の目標とした。9月27日の復帰戦ではダービー2着のステーツより11kg重い[9]66kgの斤量を負わされ、3着と敗れる。しかし続く古呼馬戦では同じ斤量を背負い、春に破ったエステイツに再び勝利した。翌週、特殊競走(のちの重賞競走)である横浜農林省賞典四・五歳呼馬を制したのち、三冠最終戦の京都農林省賞典四歳呼馬(のちの菊花賞)に備えて西下。前哨戦として臨んだ古呼馬戦は、京都到着後4日目[6]という慌ただしさのうえ、68kgの斤量を負って地元のコクチョウ(斤量60kg[9])に2馬身差の2着(3頭立て)と敗れた。しかし、この一叩きで調子は上向きとなり、10月26日の京都農林省賞典四歳呼馬には絶好調の状態で臨んだ[6]

京都農林省賞典四歳呼馬の様子
三冠達成後、人々の中を凱旋するセントライト

セントライトの他は、地元の2頭と関東から遠征したミナミモア、ステーツ、阪神優駿牝馬(オークス)優勝馬テツバンザイのみの計6頭と少頭数で、セントライトは1番人気に推された。レースでは2番手の先行策から、ゴールではミナミモアに2馬身半差を付けて優勝。1939年に三冠全競走が整備されて以来、4年目にして初のクラシック三冠を達成した。しかし当時は三冠の概念がそれほど浸透していなかったこともあり、報道はダービー優勝時よりも遙かに小さな扱いだった[10]。当事国内が支那事変から太平洋戦争へ向かう緊張下にあったことも要因にあったとされる[10][11]。なお、小西が三冠全競走で手にした進上金(賞金の取り分)の2700円は、当時の情勢を反映して現金ではなく10年の国債で支払われており、日本の敗戦と共に紙屑と化したという[12]

小西・セントライトと加藤雄策

その後は当時ダービーと並ぶ最高競走だった帝室御賞典を目標に、中山でハンデキャップ競走を使われる予定だった。しかしこの競走で72kgの斤量を背負わされることが判明、馬主の加藤は「4歳馬に72kgも背負わせるぐらいならば」と、帝室御賞典に未練なくセントライトを引退させた[13]。通算成績は12戦9勝。加藤はクモハタを持っていたときにも、帝室御賞典で2着となった後に再挑戦させることなく引退させており、加藤の競馬の師匠だった作家・菊池寛は、こうした馬の使い方に対し、「賞金を稼がせるつもりならまだ使えるのを、惜しげもなく引退させてしまう。ああ云う所は実に立派だ。天下の名馬も、彼の如きに認められて、はじめて終わりを全うし得るのかも知れない」と賛辞を送っている[14]。加藤はそれから約3年半後の1945年5月25日、アメリカ軍が東京へ行った空襲の被害に遭い、その翌日に死去した。

2020年までにクラシック三冠を達成した牡馬の全8頭において、デビューから引退まで同一年なのは 当馬のみである[注 3]。また、菊花賞以降レースに出走せず引退したのも当馬のみである。

種牡馬時代

競走馬引退後は小岩井農場に戻り種牡馬となった。太平洋戦争を経て、1947年にはオーエンスが「平和賞」として再開された春の天皇賞(帝室御賞典の後継競走)に優勝した。しかし、戦後進駐したGHQによって三菱財閥は解体され、小岩井農場もサラブレッド生産を禁じられると、セントライトは1949年より岩手畜産試験場に移された[15]。その後オーライトが1951年秋の天皇賞に優勝、1952年にはセントオーが菊花賞父子制覇を達成した。しかし小岩井から離れた後、セントライトの交配相手にはアラブ中間種が含まれるようになるなど質が著しく低下し、晩年は目立った活躍馬が出なかった[16]母の父として桜花賞優勝馬トキノキロクが出ているが、同馬ほか2頭の重賞勝利馬を産んだマルタツは、セントライトとブランドソール(繁殖名はゴールドウェッディング)の子で、さらにその子孫からはオークス優勝馬リニアクインなども輩出した。

種牡馬引退後

1965年2月1日、老衰のため同試験場で死亡[17]シンザンがセントライトに次ぐ史上二頭目の三冠馬となってから数か月後のことだった。1947年に重賞競走セントライト記念が創設されているほか[注 4]1984年にはJRA顕彰馬にも選出されるなど、シンザンや厩舎の後輩馬トキノミノルと同じく多重の顕彰を受けている。なお、競走馬としてクラシック二冠を制し、種牡馬としても大きな成功を収めた半弟トサミドリも同年にJRA顕彰馬に選ばれ、史上唯一となる兄弟での殿堂入りを果たしている。

競走成績

年月日 レース名 人気 着順 距離 斤量 タイム 騎手 着差 勝ち馬(2着馬)
1941. 3.15 横浜 新呼馬 7人 1着 芝1700(重) 55 1.53.0 小西喜蔵 5馬身 (オオトモ)
3.30 横浜 横浜農林省賞典四歳呼馬 1人 1着 芝1850(良) 57 1.59.2 小西喜蔵 3馬身 (ミナミモア)
4. 5 中山 呼馬 1人 1着 芝2000(稍) 58 2.12.8 小西喜蔵 2 1/2身 (カミワカ)
4.27 中山 呼馬 1人 1着 芝2200(良) 58 2.23.4 阿部正太郎 1 1/4身 (フアストライト)
5. 3 東京 古呼馬特殊ハンデキャップ 3人 2着 芝2300(良) 58 小西喜蔵 アタマ シヂリダケ
5.10 東京 古呼馬 1人 1着 芝2300(良) 61 2.27.6 小西喜蔵 アタマ (エステイツ)
5.18 東京 東京優駿競走 2人 1着 芝2400(重) 57 2.40.2 小西喜蔵 8馬身 (ステーツ)
9.27 横浜 古呼馬特殊ハンデキャップ 2人 3着 芝2200(良) 66 小西喜蔵 ステーツ
10. 5 横浜 古呼馬 2人 1着 芝2200(稍) 66 2.30.6 小西喜蔵 1馬身 (エステイツ)
10.12 横浜 横浜農林省賞典四・五歳呼馬 1人 1着 芝2800(良) 56 3.08.0 小西喜蔵 クビ (ミスミナミ)
10.18 京都 古呼馬 1人 2着 芝2400(重) 68 小西喜蔵 2馬身 コクチョウ
10.26 京都 京都農林省賞典四歳呼馬 1人 1着 芝3000(重) 57 3.22.6 小西喜蔵 2 1/2身 ミナミモア

主な産駒

  • オーライト(1943年産 1947年平和賞京都記念
  • ニユージヤパン(1943年産 1947年農林省賞典障害
  • オーエンス(1946年産 1950年天皇賞・春 1951年京都記念・春、阪神記念)
  • セントオー(1949年産 1952年菊花賞、京都4歳特別

おもなブルードメアサイアー産駒

競走馬としての特徴

性格面の特徴とレーススタイル

小西によればセントライトは極めて温順で扱いやすく、競馬においてもどの位置からレースを進めることが出来た。さらに競馬になると旺盛な闘争心も発揮し、特に競り合いには非常に強かったことから、「レースではなんの心配もありませんでした」と述べている[13]。また「三冠レースなどの大レースを知っていた」とし、「負けるものか、と僕に言いながら走ったね」と述懐している[18]

日常的には「もっさりの方」で、厩舎のある府中から横浜まで歩いて行った際、普通の馬なら8時間で着くところを、セントライトは9時間掛かったという[6][19]。また、京都農林省賞典四歳呼馬に備えて西下したときは、馬運車がなかった当時、列車の貨車[注 5]に揺られながら2泊3日という長旅だったが、「けろっとした顔で」これをこなしたという[11]

身体面の特徴

東京優駿出走時に計測された体高(キ甲=首と背の境から足元まで)は166cm、推定体重は500kg以上[20]と、当時としては大型馬であったが、スマートさに欠ける体型で「ずんぐりむっくりの大型戦車」などと揶揄されていた[21]。ライターの藤野広一郎が往時を知る調教師に取材したところによれば、「ああいう馬は、玄人には買えない馬です」と語ったという[21]。「大尾形」と称された尾形藤吉も、セリでセントライトを見たものの敬遠していた[22]日本中央競馬会理事を務めた青木栄一は「黒い巨体を、私の記憶では大きなで、ノッシノッシという感じで馬場に出てくる様子は、暗闇の牛という感じであった」と述懐している[23]。しかしその身体は健強で、小西は「セントライトは馬面中の馬面で好男子ではなかったが、利口で丈夫。感冒一つひいたことがなかった。横浜で走っていたころ体高を計ったら1メートル64センチ。それが東京へ来てから計ったら2センチ伸びていた。芯から丈夫な証拠だと思ったね」と述懐している[24]。また、田中和一郎は「こんなに疲労回復が早い馬は見たことがない」と驚いていたという[5]

なお、セントライトが競走登録される直前まで、日本競馬会は体高164cmを超える馬の登録を認めていなかった。もしこの規定が撤廃されていなければ、セントライトは地方競馬で走ることを余儀なくされていた[5][20]大川慶次郎は一説として、計測の時に前脚の地面を少し窪ませてごまかしたという話もあったという[25]

血統

血統背景

父ダイオライトは戦中から戦後にかけて4度のリーディングサイアーを獲得した名種牡馬だったが、輸入当初は体型についての評価が低く、その成功を疑問視されていた。この評価に真っ向から反発したのが加藤雄策で、雑誌に「ダイオライト礼讃記」という文章を寄せるなど、熱狂的にダイオライトを支持していた[26][27]

母フリッパンシーは後に八大競走と呼ばれる競走の優勝馬を4頭出した日本競馬史上唯一の牝馬で、4頭での八大競走計8勝は史上最多記録である。また、子孫からも桜花賞優勝馬ヤシマベル、菊花賞優勝馬ノースガストなど数々の活躍馬が出ている。

セントライト血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 オーム系

*ダイオライト
Diolite
1927 黒鹿毛
父の父
Diophon
1921 栗毛
Grand Parade Orby
Grand Geraldine
Donnetta Donovan
Rinovata
父の母
Needle Rock
1915 鹿毛
Rock Sand Sainfoin
Roquebrune
Needlepoint Isinglass
Etui

*フリッパンシー
Flippancy
1924 黒鹿毛
Flamboyant
1918 鹿毛
Tracery Rock Sand
Topiary
Simonath St.Simon
Philomath
母の母
Slip
1909 鹿毛
Robert Le Diable Ayrshire
Rose Bay
Snip Donovan
Isabel
母系(F-No.) (FN:22-b) [§ 2]
5代内の近親交配 Rock Sand 3×4、Donovan 4×4、St.Simon 5×4、Galopin 5×5・5、Orme 5×5 [§ 3]
出典
  1. ^ [28]
  2. ^ [28]
  3. ^ [28]


脚注

注釈

  1. ^ 当時は三栄冠馬と呼ばれた。後にシンザンミスターシービーシンボリルドルフナリタブライアン、ディープインパクト、オルフェーヴル、コントレイルと続く。
  2. ^ のちに栗林友二へ譲渡されたことに伴いクリヒカリと改名された。
  3. ^ 当時は2歳戦が行われていなかった。言うまでもなく、デビューから三冠達成までの日数は史上最短である(225日)。
  4. ^ 第1回競走は小西喜蔵が乗るイーストパレードが制した。同競走は1995年より菊花賞へのトライアル競走として施行されている。
  5. ^ 鉄道で馬は通常の有蓋車で輸送していた。

出典

  1. ^ a b 『調教師の本』p.175
  2. ^ a b 『日本の名馬・名勝負物語』p.74
  3. ^ 『優駿』2011年4月号、125頁。 
  4. ^ 『日本の名馬』p.65
  5. ^ a b c 藤野(1992)p.17
  6. ^ a b c d e 『日本の名馬・名勝負物語』p.75
  7. ^ 大川(1998)p.38
  8. ^ a b c 『調教師の本』p.176
  9. ^ a b 『日本の名馬』p.67
  10. ^ a b 『優駿』1993年12月号、p.45
  11. ^ a b 『調教師の本』p.178
  12. ^ 『調教師の本』p.179
  13. ^ a b 『日本の名馬・名勝負物語』p.76
  14. ^ 『優駿』2002年4月号、p.86
  15. ^ 『サラブレッド101頭の死に方』p.122
  16. ^ 『日本の名馬・名勝負物語』p.73
  17. ^ 『サラブレッド101頭の死に方』p.121
  18. ^ 今井(1986)p.60
  19. ^ 大川(1998)p.29
  20. ^ a b 『日本調教師会50年史』p.146
  21. ^ a b 藤野(1992)p.15
  22. ^ 『調教師の本』p.174
  23. ^ 『優駿』1977年2月号 p.29
  24. ^ 『調教師の本』pp.177-178
  25. ^ 大川(1998)p.37
  26. ^ 『日本の名馬』pp.63-65
  27. ^ 藤野(1992)p.14
  28. ^ a b c “血統情報:5代血統表|セントライト|JBISサーチ(JBIS-Search)”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2018年1月1日閲覧。

参考文献

  • 白井透編『日本の名馬』(サラブレッド血統センター、1971年)ASIN B000J93LLC
    • 岡田光一郎「セントライト」
  • 中央競馬ピーアール・センター編『日本の名馬・名勝負物語』(中央競馬ピーアール・センター、1980年)ISBN 4924426024
    • 渡辺高昌「初の三冠馬 - セントライト」
  • 今井昭雄『ダービー馬の履歴書』(保育資料社、1987年)ISBN 4829302178
  • 中央競馬ピーアール・センター編『調教師の本』(日本中央競馬会、1990年)
  • 藤野広一郎『懐かしの名馬たち - ちょっと昔の名馬物語』(1992年、コスモヒルズ)ISBN 4877038094
  • 大川慶次郎『大川慶次郎回想録 まっすぐ競馬道 杉綾の人生』(日本短波放送、1998年)ISBN 4931367291
    • 文庫版あり(角川文庫、2000年)ISBN 4043542011
  • 大川慶次郎ほか『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』(徳間書店、1999年)ISBN 4198911851
  • 『日本調教師会50年史』(社団法人日本調教師会、2002年)
  • 『優駿』1977年2月号(日本中央競馬会、1977年)
    • 青木栄一「戦後むかしばなし」
  • 『優駿』1993年12月号(日本中央競馬会、1993年)
    • 畠山直毅「『優駿』にみる日本の競馬半世紀 - ぼくの『優駿』600号探検」
  • 『優駿』2002年4月号(日本中央競馬会、2002年)
    • 「『優駿』に見る日本の競馬60年 - 菊池寛『無事之名馬』」

外部リンク

クラシック三冠
牝馬三冠
変則三冠
皐月賞勝ち馬
1930年代
1940年代

第2回 ウアルドマイン / 第3回 セントライト / 第4回 アルバイト / 第5回 ダイヱレク / 第6回 クリヤマト / 第7回 トキツカゼ / 第8回 ヒデヒカリ / 第9回 トサミドリ

1950年代

第10回 クモノハナ / 第11回 トキノミノル / 第12回 クリノハナ / 第13回 ボストニアン / 第14回 ダイナナホウシユウ / 第15回 ケゴン / 第16回 ヘキラク / 第17回 カズヨシ / 第18回 タイセイホープ / 第19回 ウイルデイール

1960年代

第20回 コダマ / 第21回 シンツバメ / 第22回 ヤマノオー / 第23回 メイズイ / 第24回 シンザン / 第25回 チトセオー / 第26回 ニホンピローエース / 第27回 リュウズキ / 第28回 マーチス / 第29回 ワイルドモア

1970年代
1980年代
1990年代
2000年代

第60回 エアシャカール / 第61回 アグネスタキオン / 第62回 ノーリーズン / 第63回 ネオユニヴァース / 第64回 ダイワメジャー / 第65回 ディープインパクト / 第66回 メイショウサムソン / 第67回 ヴィクトリー / 第68回 キャプテントゥーレ / 第69回 アンライバルド

2010年代

第70回 ヴィクトワールピサ / 第71回 オルフェーヴル / 第72回 ゴールドシップ / 第73回 ロゴタイプ / 第74回 イスラボニータ / 第75回 ドゥラメンテ / 第76回 ディーマジェスティ / 第77回 アルアイン / 第78回 エポカドーロ / 第79回 サートゥルナーリア

2020年代

第80回 コントレイル / 第81回 エフフォーリア / 第82回 ジオグリフ / 第83回 ソールオリエンス / 第84回 ジャスティンミラノ

東京優駿(日本ダービー)勝ち馬
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
菊花賞勝ち馬
1930年代

第1回 テツモン / 第2回 マルタケ

1940年代

第3回 テツザクラ / 第4回 セントライト / 第5回 ハヤタケ / 第6回 クリフジ / 第7回 アヅマライ / 第8回 ブラウニー / 第9回 ニユーフオード / 第10回 トサミドリ

1950年代

第11回 ハイレコード / 第12回 トラツクオー / 第13回 セントオー / 第14回 ハクリヨウ / 第15回 ダイナナホウシユウ / 第16回 メイヂヒカリ / 第17回 キタノオー / 第18回 ラプソデー / 第19回 コマヒカリ / 第20回 ハククラマ

1960年代

第21回 キタノオーザ / 第22回 アズマテンラン / 第23回 ヒロキミ / 第24回 グレートヨルカ / 第25回 シンザン / 第26回 ダイコーター / 第27回 ナスノコトブキ / 第28回 ニツトエイト / 第29回 アサカオー / 第30回 アカネテンリュウ

1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代

第71回 ビッグウィーク / 第72回 オルフェーヴル / 第73回 ゴールドシップ / 第74回 エピファネイア / 第75回 トーホウジャッカル / 第76回 キタサンブラック / 第77回 サトノダイヤモンド / 第78回 キセキ / 第79回 フィエールマン / 第80回 ワールドプレミア

2020年代

第81回 コントレイル / 第82回 タイトルホルダー  / 第83回 アスクビクターモア / 第84回 ドゥレッツァ