藤堂虎高

 
凡例
藤堂 虎高
藤堂虎高像(上行寺蔵[1])
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正13年(1516年
死没 慶長4年10月18日(1599年12月5日
改名 源助(幼名)→虎高
別名 白雲斎(号)
墓所 三重県伊賀市の上行寺
主君 武田信虎京極高吉浅井亮政
久政長政豊臣秀長?
氏族 三井家藤堂氏
父母 父:三井乗綱、養父:藤堂忠高
正室:藤堂忠高の娘
側室:宮崎一郎左衛門の娘
娘(鈴木弥右衛門室)、高則高虎
娘(山岡直則室、後に渡辺守(渡辺了息子)室)、
高清、正高、娘(藤堂高経室)
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藤堂 虎高(とうどう とらたか)は、戦国時代から安土桃山時代武将近江犬上郡藤堂村の土豪。子に藤堂高虎など。愛智氏を称したこともある。

生涯

永正13年(1516年)、近江鯰江城主・三井乗綱(定虎)の次男として生まれた。藤原姓三井氏にあたり、江戸時代の豪商・三井家や江戸時代の大名家・藤原姓毛利氏(鯰江氏)らも近縁とされる。

16歳頃から若くして近江を離れて甲斐武田氏に仕え、才を寵愛されて主君の武田信虎より「虎」の偏諱を授かるほどになったが、2,3年後故あって武田家を離れた(巷説では若い他国者の出世に対する同僚の嫉妬とされる)。また越後長尾為景に一時期仕えたともいう。

近江に帰国後、藤堂忠高の婿養子となった。 婿養子先の藤堂家は在地の土豪といえども、虎高の代には犬上郡数村を支配する程度であった。はじめ京極氏、後に浅井氏に仕えた。長男の高則は早くに戦死した。次男の高虎が出世していく過程で、自然とその家中に編入された。豊臣秀長の家臣になったか食客なのかは資料が無く不詳となっている。家督を高虎に譲った後、故郷の白雲山を偲んで白雲斎と号した。

藤堂虎高廟(伊賀市上行寺)

慶長4年(1599年)、高虎の領地である伊予宇和島城で死去した。享年84。

脚注

  1. ^ 三重県指定文化財。紙本著色、1幅、縦76.7x35.4cm。元和7年(1621年)7月中澣(11~20日)の年記。日饒(斎藤道三の息子)賛。肖像画は近江国そして浅井氏に所縁のある狩野山楽の作風に酷似し、日饒の花押の下には削り取られたような跡が見られる。これは、大坂夏の陣後に幕府から狙われた山楽の筆であることを隠すためだと見られ、肖像画制作も虎高の命日に近い頃だと考えられる(三重県編集発行 『三重県史 別編 美術工芸(解説編)』 2014年3月31日、pp.151-152。解説は狩野博幸)。
藤堂蔦紋藤堂氏第8代当主
宗家

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分家・支流

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