三浦義次

曖昧さ回避 この項目では、美作勝山藩7代藩主について説明しています。平安時代の相模国の武士については「三浦義継」を、戦国時代の徳川家臣については「三浦重成」をご覧ください。
 
凡例
三浦義次
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政9年1月20日(1826年2月26日[1]
死没 明治16年(1883年6月23日[1]
戒名 天徳院殿聖誉聡明知恵達大居士
墓所 岡山県真庭市勝山の安養寺
官位 従五位下備後守[1]主計頭
幕府 江戸幕府
美作勝山藩
氏族 三浦氏
父母 三浦誠次、岩淵氏
兄弟 峻次義次弘次[1]
土倉鉚太郎、土倉光三郎、参子、悌ら
朗次
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三浦 義次(みうら よしつぐ)は、江戸時代後期の大名。美作国勝山藩7代藩主。美作勝山藩三浦家12代。

生涯

文政9年(1826年)、第5代藩主・三浦誠次の三男[1]として生まれる。

天保10年(1839年)、兄で先代藩主の峻次が嗣子なくして死去したため、その跡を継いだ。藩政に尽くしたが、弘化4年(1847年)7月に大水害を受けて藩内が大きな被害を受けるなど、その治世は多難を極めた。

嘉永元年(1848年)11月22日、家督を養嗣子の朗次(越前丸岡藩有馬徳純の子、有馬誉純養子)に譲って隠居[1]。明治16年(1883年)6月23日に58歳で死去した。

系譜

勝山藩主三浦家の略系図
三浦明敬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明喬
 
 
 
義理
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明次1
 
 
 
矩次2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
前次3
 
 
 
毗次4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
誠次5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
峻次6義次7弘次9
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朗次8顕次10
  • 実線は実子、点線は養子を示す。
  • すべての人物を掲載してはおらず、
    また兄弟・姉妹の順に配列してはいない。
  • 数字は美作勝山藩主の代数を示す。

正室は津山藩主・松平斉民(将軍徳川家斉の子)の娘。[要出典]

平成新修旧華族家系大成』に夫人の記載はなく、実子は以下が記されている[1]

  • 二男[2]:土倉鉚太郎(土倉一昌養子)
  • 三男[2]土倉光三郎(1870-1942) - 土倉万亀養子
  • 二女[3]:参子(大谷勝尊室)
  • 女子:悌(後藤隆重室、のち中川元蔵室、のち三浦計次方に入籍)。

鉚太郎は岡山藩家老家である土倉家の養子となったがのちに離縁。その後、光三郎が土倉家を継ぐ。光三郎は明治14年(1881年)男爵に叙せられた。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成』下、p.668
  2. ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下、p.177
  3. ^ 『平成新修旧華族家系大成』上、p.311

参考文献

外部リンク

  • デジタル版 日本人名大辞典+Plus『三浦義次』 - コトバンク
三浦氏美作勝山藩7代藩主 (1839年 - 1848年)