ハプスブルク占領下のセルビア (1788年-1792年)

ハプスブルク占領下のセルビア
Serbien
オスマン帝国
軍政国境地帯
1788年 - 1792年 オスマン帝国
セルビアの国旗 セルビアの国章
国旗国章
セルビアの位置
1789年から1790年にかけてのハプスブルク占領地
公用語 セルビア語ドイツ語
宗教 ローマ・カトリック
セルビア正教
首都 ベオグラード
元首等
xxxx年 - xxxx年 不明
変遷
オーストリア軍による占領 1788年
墺土戦争1787年-91年
オーストリア軍撤退、シストヴァ条約締結1792年
セルビアの歴史
セルビアの鷲
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先史時代(英語版)
ローマ時代(英語版)
中世(英語版)
白セルビア(英語版) ~610 AD
セルビア公国(英語版)
ラシュカ · ドゥクリャ · ザフムリェ ·
トレビニェ · パガニア
768-969
セルビア総督領(英語版) 969-976
シルミウム・テマ(英語版) 969-1043
ヴォイスラヴリェヴィッチ朝(英語版) 998-1101
セルビア大公国(英語版) 1101-1217
セルビア王国 1217-1346
スレム王国(英語版) 1282-1325
セルビア帝国 1346-1371
セルビア公国 1371-1402
セルビア専制公国(英語版) 1402-1537
近世
オスマン帝国領セルビア(英語版) 1402-1912
ヨヴァン・ネナド
ラドスラヴ・チェルニク
1526-1530
ハプスブルク領セルビア(英語版) 1686-1699
セルビア人の大移動(英語版) 1690
1737-1739
ハプスブルク領セルビア王国(英語版) 1718-1739
ハプスブルク領セルビア 1788-1791
軍政国境地帯 1702-1882
近代
セルビア蜂起 1804-1813
1815-1817
第一次セルビア蜂起(英語版) 1804-1813
第二次セルビア蜂起(英語版) 1815-1817
セルビア公国 1817-1882
セルビア・ヴォイヴォディナ(英語版) 1848-1849
セルビアおよびタミシュ・バナト(英語版) 1849-1860
セルビア王国 1882-1918
現代
ユーゴスラビア王国 1918-1941
セルビア救国政府 1941-1944
セルビア社会主義共和国 1943-1990
セルビア共和国(連邦の構成国) 1990-2006
セルビア共和国 2006-現在

セルビア ポータル

コチャの国境(コチャのこっきょう、セルビア語: Кочина крајинаラテン文字転写Kočina krajina)は墺土戦争中にオスマン帝国スメデレヴォ・サンジャク(英語版)で設立されたセルビア人領土。ハプスブルク帝国によって設立されたセルビア義勇軍(英語版)(このうち、コチャ・アンジェルコヴィッチ(セルビア語版)が頭角を現し、「コチャの国境」という名前の由来となった)が1788年2月から1788年9月7日までスメデレヴォ・サンジャク中部を占領した後、ハプスブルク家が正式に参戦すると、占領地が拡大されて「セルビア」と呼ばれるようになった。ハプスブルク軍が撤退し、1792年にシストヴァ条約が締結されると、セルビア人地域もオスマン帝国に回復された。

背景

セルビア人

セルビア人はバルカン半島における対オスマン帝国戦争に積極的に参戦しており、たびたび蜂起もしていた[1]。そのため、セルビア人はオスマン帝国に弾圧され、その領土が荒廃した[1]。これにより多くのセルビア人がハプスブルク家領に移民した[1]

墺露同盟

詳細は「墺露同盟 (1781年-1790年)」を参照

1786年にカフカースをめぐる紛争がおきたため、ロシア帝国とオスマン帝国の関係が悪化した。翌年、ヨーゼフ2世とエカチェリーナ2世が再びクリミア半島で会談すると、オスマン帝国はロシアに宣戦布告した[2]。オーストリアもセルビア人難民に戦争の準備をさせた。

歴史

「墺土戦争 (1787年-1791年)」も参照

コチャの国境の反乱

1788年時点のコチャの国境(反オスマン反乱がおきた地域)

セルビア義勇軍(英語版)バナトで設立され、1787年以前のオーストリアとオスマン帝国間の戦争によりハプスブルク領に逃亡していたセルビア人5千人で構成された[3]。彼らはセルビア解放とハプスブルク統治を望み、そのために戦った[3]。主要な指揮官はオーストリアのミハイロ・ミハリェヴィチ(セルビア語版)少佐だった[2]。義勇軍にはアレクサ・ネナドヴィチ(英語版)スタンコ・アランバシッチ(セルビア語版)、そしてコチャ・アンジェルコヴィッチ(英語版)が従軍していた[2]。オーストリア軍は1787年末と1788年初の2度、ベオグラードを奪取しようとしていたときにセルビア義勇軍を投入したが、いずれも失敗した[3]

オーストリアは1788年2月に開戦した時点で簡単に勝利する機会を失ってしまった[3]。ロシアの準備が遅かったせいでオスマン軍がベオグラードに集結してしまったのであった[4]。オーストリアはロシアがモルダヴィアで支援することに頼っていたが、それは1788年末のことであり、またヨーゼフ2世はオスマン軍と戦いたくないという様子だった[4]。7月、オスマン軍がドナウ川を越えてオーストリア領バナトに進攻した[4]。両軍とも物資不足に悩まされたほか、疫病の流行がオーストリア軍を苦しめた[4]。さらに、5万人ものセルビア人難民がドナウ川を越えてやってきたため、オーストリア軍に兵站上の問題が生じてしまった[4]>。これに対し、ヨーゼフ2世が8月中旬に20,400人をバナトに派遣した[4]

ハプスブルク軍による占領

1789年10月8日、エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドンがベオグラードを占領した。オーストリア軍はセルビア全土を占領、多くのセルビア人がセルビア義勇軍に従軍して経験を積んだ[5]。また、ローマ・カトリック教会の聖職者も従軍してセルビア正教徒を改宗させようとしたため、オスマン帝国が1792年にセルビアを奪回した後、セルビア人はロシアに援助を仰ぐようになった[5]

「セルビア王国」の地図、フランツ・ヨハン・ヨーゼフ・フォン・ライリー(ドイツ語版)作、1791年。

オーストリア軍は1791年にはドナウ川サヴァ川を渡って撤退、数千世帯のセルビア人がオスマン帝国の迫害を恐れてそれに従った。1792年、シストヴァ条約により戦争が終結した。

その後

戦後、オスマン帝国はセルビア人に現地での徴税権を与えた[6]。しかし、オスマン軍の再編で除け者にされたイェニチェリの一部がスメデレヴォ・サンジャク(英語版)(セルビア)に流れ着いて、セルビア人に与えられた権利を取り消そうとした[6]ダヒーイェ(英語版)と呼ばれたこれらの不平イェニチェリは徴税人の虐殺(英語版)を起こし、1804年の第一次セルビア蜂起(英語版)の引き金となった[6]。蜂起の指導者ジョルジェ・ペトロヴィチはハプスブルク占領期に志願兵としてオーストリア軍に従軍していた[6]。蜂起はやがてセルビア革命(1804年 - 1817年)に拡大、セルビア公国が実質的に独立する結果となった。

記念

「コチャの国境の日」(Дани Кочине крајине)という記念行事が毎年ヤゴディナクラドヴォ(英語版)で行われている[7]

脚注

  1. ^ a b c A ́goston, Ga ́bor; Masters, Bruce Alan (1 January 2009). Encyclopedia of the Ottoman Empire. Infobase Publishing. pp. 518–. ISBN 978-1-4381-1025-7. https://books.google.com/books?id=QjzYdCxumFcC&pg=PA518 
  2. ^ a b c Ćorović 2001.
  3. ^ a b c d Schroeder, Paul W (1996). The Transformation of European Politics, 1763-1848. Oxford University Press. pp. 58–59. ISBN 978-0-19-820654-5. https://books.google.com/books?id=BS2z3iGPCigC&pg=PA59 
  4. ^ a b c d e f Aksan, Virginia (14 January 2014). Ottoman Wars, 1700-1870: An Empire Besieged. Routledge. pp. 163–. ISBN 978-1-317-88403-3. https://books.google.com/books?id=UaesAgAAQBAJ&pg=PA163 
  5. ^ a b Alexander, R. S. (30 January 2012). Europe's Uncertain Path 1814-1914: State Formation and Civil Society. John Wiley & Sons. pp. 19–. ISBN 978-1-4051-0052-6. https://books.google.com/books?id=-XzKVba8xN8C&pg=PA19 
  6. ^ a b c d Lampe, John R. (28 March 2000). Yugoslavia as History: Twice There Was a Country. Cambridge University Press. pp. 48–. ISBN 978-0-521-77401-7. https://books.google.com/books?id=AZ1x7gvwx_8C&pg=PA48 
  7. ^ Дани Кочине Крајине” (セルビア語). (2009年9月12日). http://www.rts.rs/page/stories/ci/story/124/%D0%94%D1%80%D1%83%D1%88%D1%82%D0%B2%D0%BE/154171/%D0%94%D0%B0%D0%BD%D0%B8+%D0%9A%D0%BE%D1%87%D0%B8%D0%BD%D0%B5+%D0%BA%D1%80%D0%B0%D1%98%D0%B8%D0%BD%D0%B5.html 

参考文献

ウィキメディア・コモンズには、ハプスブルク占領下のセルビア (1788年-1792年)に関連するカテゴリがあります。
  • Bataković, Dušan T., ed (2005) (フランス語). Histoire du peuple serbe [History of the Serbian People]. Lausanne: L’Age d’Homme. https://books.google.com/books?id=a0jA_LdH6nsC 
  • Ćorović, Vladimir (2001) [1997]. “Kočina krajina” (セルビア語). Историја српског народа. Belgrade: Јанус. http://www.rastko.rs/rastko-bl/istorija/corovic/istorija/6_15.html 
  • Đorđević, M.; Nedeljković, S. (2015). “Политичке прилике у београдском пашалуку у предвечерје српске револуције (1787-1804)”. Teme-Časopis za Društvene Nauke. http://teme2.junis.ni.ac.rs/index.php/TEME/article/view/57/54. 
  • Novaković, Stojan (1906年). “Tursko carstvo pred srpski ustanak, 1780-1804” (セルビア語). 2019年1月15日閲覧。
  • Pantelić, Dušan (1930). Кочина крајина. Beograd: Srpska kraljevska akademija. https://books.google.com/books?id=-x1WPgAACAAJ 
  • Stefanović, Radmilo (1956). Kočina krajina. Prosveta. https://books.google.com/books?id=_YY6AQAAIAAJ 
  • Svirčević, Miroslav M. (2002). “Knežinska i seoska samouprava u Srbiji 1739-1788-delokrug i identitet lokalne samouprave u Srbiji od Beogradskog mira (1739) do Austrijsko-turskog rata (1788)”. Balcanica 32-33. 
  • Radojičić, Branko S. (2012). Аустријско шпијунирање у Београдском пашалуку 1782-1785: Хабзбуршки обавештајци у Србији пред Турско аустријски рат 1788-1791. Kraljevo. https://www.academia.edu/15911569/%D0%90%D1%83%D1%81%D1%82%D1%80%D0%B8%D1%98%D1%81%D0%BA%D0%BE_%D1%88%D0%BF%D0%B8%D1%98%D1%83%D0%BD%D0%B8%D1%80%D0%B0%D1%9A%D0%B5_%D1%83_%D0%91%D0%B5%D0%BE%D0%B3%D1%80%D0%B0%D0%B4%D1%81%D0%BA%D0%BE%D0%BC_%D0%BF%D0%B0%D1%88%D0%B0%D0%BB%D1%83%D0%BA%D1%83 
  • Roider, Karl A., Jr. (1982). Austria's Eastern Question, 1700-1790. Princeton University Press. ISBN 978-1-4008-5669-5. https://books.google.com/books?id=Rtr_AwAAQBAJ&pg=PA1