トニ・ブランコ

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はブランコ第二姓(母方の姓)はカブレラです。
トニ・ブランコ
Tony Blanco
中日時代
(2009年7月16日、阪神甲子園球場)
基本情報
国籍 ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
出身地 サンフアン州サン・フアン・デ・ラ・マグアナ
生年月日 (1980-11-10) 1980年11月10日(43歳)[注 1]
身長
体重
188 cm
102 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手
プロ入り 1998年 アマチュアFA
初出場 MLB / 2005年4月4日
NPB / 2009年4月3日
最終出場 MLB / 2005年9月24日
NPB / 2016年7月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
この表について
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プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

トニ・ヘミフェア・ブランコ・カブレラTony Hemiphere Blanco Cabrera, 1980年11月10日 - )は、ドミニカ共和国サンフアン州サン・フアン・デ・ラ・マグアナ出身の元プロ野球選手内野手)。右投右打。息子のトニ・ブランコ・ジュニアもプロ野球選手[1]

経歴

アカデミー時代

1997年に、ボストン・レッドソックスがドミニカに設けていたアカデミーに入り、プロとしてのキャリアを始動した。 アカデミー入団時の契約金はわずか5000ドルだったという[2]

レッドソックス傘下時代

1998年7月2日に正式にレッドソックスとプロ契約を結びアメリカに渡る[2]

レッズ傘下時代

2002年12月6日にトレードでシンシナティ・レッズへ移籍。

2003年に1Aでプレーした際には、レッズの若手有望株として名前を連ねた。

ナショナルズ時代

2004年12月13日のルール・ファイブ・ドラフトでワシントン・ナショナルズから指名され移籍。2005年4月4日にメジャーデビューを果たす。この年は、打率.177、1本塁打、7打点という成績を残しメジャーで56試合に出場したが、翌年からは成績が振るわず、ルーキーリーグから2Aの往復であった。

2007年10月29日にFAとなった。

ロッキーズ傘下時代

2008年1月8日にコロラド・ロッキーズと契約。2Aで打率.323、23本塁打、88打点を記録。秋のドミニカン・ウインターリーグではエストレージャス・オリエンタレスに所属し19安打、9本塁打と長打力を発揮した。

中日時代

2008年12月16日に中日ドラゴンズに入団することを発表した[3]。背番号は42で、登録名は姓のみのブランコ[4]。11月4日に退団したタイロン・ウッズに代わる助っ人として期待された。

とはいえ、中日入団前までは申し訳程度しかメジャー経験の無い無名の選手であったにもかかわらず入団に至ったまでの経緯として森繁和が『ベースボールマガジン』2019年4月号のインタビューで、「08年のウインター・リーグで出会ったのがトニ・ブランコだった」と彼との遭遇を振り返っている。森は「(ウッズの)代わりが務まるヤツなど簡単にはいないだろうと思って見たら、圧倒的な飛距離が際立っていた。中日が提携していたチームの四番だったので、調べたら性格もいい」と当時評価していたところを語り「当時のブランコは27、28歳で、メジャーと3Aを行き来していた。本人は日本で稼ぎたいと言う。メジャーに行けば年俸8000万~1億、マイナーに落とされたら2~3000万だった。最初に来日したときには年俸2800万円台だったと思う。契約金を先に欲しいと言ってきたが、3~400万円と安かった。その代わり出来高もつけた。結局、タイロン・ウッズの穴を埋めて余りある活躍をした」と述べている[5]

2009年4月3日の横浜ベイスターズとの開幕戦(ナゴヤドーム)、初打席で三浦大輔からバックスクリーンに飛び込むソロ本塁打を放ち、初打席初本塁打を記録[6]。中日の外国人選手が初打席で本塁打を打ったのは、1990年のベニー・ディステファーノ以来となった[7]。5月7日の対広島東洋カープ戦では前田健太からナゴヤドームの高さ50mの位置にある天井スピーカーに直撃する推定飛距離160mの大飛球を放ち、ナゴヤドーム初の「認定本塁打」を記録。セ・パ交流戦では、日本生命賞(セ・リーグ優秀選手賞)を受賞[8]。7月1日の対阪神タイガース戦(ナゴヤドーム)で6回裏に福原忍から3点本塁打を放ち、アーロン・ガイエル東京ヤクルトスワローズ)に次ぐ外国人史上2人目の、1年目でセ・パ11球団に対し本塁打を放つ[9]など、球宴休みまでに打率.295、28本塁打の成績を挙げていた。しかし、シーズン終盤には徹底的なマークに苦しめられた。9月8日の対阪神戦で安藤優也から36号本塁打を放って以降、26日の同じく対阪神戦で下柳剛から37号本塁打を放つまで実に66打席を費やすほど警戒された[10]。来日1年目から全試合で4番に座り、39本塁打・110打点で本塁打王、打点王の二冠を獲得した。シーズン終了後に2011年までの2年契約を結ぶ。

2010年は他球団からマークされ、打撃不振に陥る。さらに右手中指を故障し、4番から5番に降格されたり、二軍降格を経験したりするなど、苦しいシーズンだった。それでも32本塁打を放ち、2年連続の30本塁打を達成した。

2011年はヘッドコーチの森繁和が「ブランコより飛ばす奴を連れてくる。競争させる」としてジョエル・グスマンフェリックス・カラスコを獲得したため、春季キャンプでは右翼手の練習もした[注 2](落合自身もグスマンとカラスコの状態次第ではブランコをレギュラーから外す可能性を示唆していた)。結局、グスマンとカラスコの両外国人選手が不調のため、規定打席不足ながらレギュラーとして出場した。10月10日~10月13日の対東京ヤクルトスワローズ4連戦(ナゴヤドーム)では第2戦~第4戦の3試合で先制打(決勝打)を打った[11][12]。優勝決定試合となった10月18日の横浜戦(横浜スタジアム)では6回表に同点に追いつく3点本塁打を打った[11]。10月は打率.340、6本塁打(リーグ1位)、12打点を記録し、初めて月間MVPを受賞した[12]

なお、2011年まで中日ドラゴンズの監督だった落合博満はスポーツ番組等にて「2012年には荒木雅博を二塁手に戻す予定で、井端弘和を三塁手、森野将彦を一塁手、ブランコは他球団に持ってかれてもいいよというところまで全て段取りはつけてあった」と告白している[13]

2012年東北楽天ゴールデンイーグルスから中日に復帰した山崎武司とのポジション争いの結果、開幕直後は代打での出場が中心だったが、山崎の故障もあり、4月下旬からスタメンに復帰。また、応援歌コール「かっとばせ ブランコ!」は、この年から「Go Go Let's Go ブランコ!」に変更された。5月には月間打率3割3分3厘、9本塁打、23打点を挙げ月間MVPを獲得した。7月8日のDeNA戦では山口俊から死球を受けた際に左手中指を骨折し登録を抹消、選手間投票で選ばれたオールスターゲームおよびファン投票で選出された本塁打競争の出場も辞退した(代わりに巨人の阿部慎之助が出場)。ブランコが不在の間、4番は和田一浩森野将彦と山崎武司が務めた。8月28日の巨人戦で一軍復帰すると、早速連続タイムリーでチームに勝利をもたらす活躍を見せた。9月4日の対広島東洋カープ戦で、江草仁貴から来日初の満塁本塁打を放った。オフに球団側は成績に関わらず、「マネーゲームはしない」として、当初から厳しい契約を示唆した[14]結果、残留交渉が金銭面での乖離[注 3]で難航し、保留選手名簿から外れ、11月30日、自由契約公示された。中日は、11月の段階でブランコの自由契約を前提とした行動をしており、9日に監督の高木守道が「ブランコなんて三振、三振、三振だ。落ちるボールを放っときゃいいわ!」「前に監督やった時も落合(博満)が出て行ったけど、出て行きたいヤツは出て行けばいい。去る者は追わず。無理して引き留めんでいい[15]」と、この時点でまだ自分の部下であったブランコへの挑発的な言動を見せた。高木は夫人から「いらんこと言うな」とたしなめられている[16]中日新聞によると、金銭面以外の原因としては、この年の途中にブランコが契約した代理人との交渉が上手くいかなかっただけでなく、本人との直接交渉ができなかったこと、チーム編成のバランスを重視していた中日サイドとの乖離もあった[17]。ちなみにクライマックスシリーズ終了後にブランコは母国に帰国していたが、名古屋市内にあった自宅は片付けられていたということから、中日に残留することは既に頭の中になかったことが窺い知れる[17]。ただし、同じく中日新聞社の中日スポーツによると、ドミニカに帰国中のブランコを取材したときは、中日の提示した待遇に満足している旨の発言をしていたといい、「義理人情に厚い男が、カネだけで動いたとは思えない。」と他の要因を示唆している[18]

DeNA時代

2014年9月23日 ヒーローインタビューを受けるブランコ

2012年12月11日に横浜DeNAベイスターズが2年総額5億円の契約に合意したことを発表した[19]。これ以降、日本プロ野球での登録名はファーストネームも含んだT.ブランコ表記となった。奇しくも中日でブランコの前任の4番打者タイロン・ウッズとは逆の移籍となった。移籍1年目の年俸は2億円。その後、同じく中日の外国人選手であるエンジェルベルト・ソトホルヘ・ソーサもDeNAに移籍したため、3人の外国人選手が同時に同一球団から同一他球団に移籍するという史上初めての出来事だった[20]

2013年は4月18日の広島戦から23日の巨人戦まで5試合連続本塁打[21]、30日の対ヤクルト戦で村中恭兵から横浜スタジアムのセンターバックスクリーンに本塁打を放った。これが月間14本目の本塁打となり、1954年8月に青田昇が記録した月間13本塁打の球団記録を59年ぶりに塗り替えた。最終的には打率.333、41本塁打、136打点といずれも自己最高の成績を達成し、自身初の首位打者と2度目の打点王を獲得した。

2014年は度重なる足の肉離れの発症に苦しみ、都合3度の故障離脱に悩まされ(当時神宮外苑界隈ではフットサルで軽い肉離れを起こすと「肉がブラブラブランコ」なるジョークが流行しており、肉離れの代名詞として認知する層もあったことが窺える[5])、前年の成績を下回り、9月6日の広島戦で復帰した筒香嘉智に4番の座を奪われた。この間にサヨナラ本塁打を2度(うち1つは9月15日の中日戦[22])放つも、9月26日に再び足の肉離れの発症により、登録抹消された。最終的には85試合の出場、打率.283、17本塁打、60打点に留まり、12月2日、自由契約公示された[23]

オリックス時代

オリックス・バファローズ時代(2016年5月17日 こまちスタジアムにて)

2014年12月6日にオリックス・バファローズに入団することを発表した[24]

2015年は5番指名打者で開幕スタメン起用されたが、4月1日に故障で登録を抹消された。補強した選手が故障などで軒並み不振でそのままチームは不振に陥った。5月17日(対北海道日本ハムファイターズ戦)には打席中にボール球を見逃した際に右股関節を痛め、肉離れが判明した[25]。その後も故障の影響で昇格と降格を繰り返し、9月21日にシーズン4度目の登録抹消となった[26]。52試合の出場で本塁打数は来日後初めて二桁に届かないなど、成績は低迷した。

2016年も怪我に苦しみ、僅か27試合出場で3本塁打に終わり、12月2日、自由契約公示された[27]

オリックス退団後

2021年12月12日、HFL士別サムライブレイズと選手兼任監督として契約したことが発表された[28]が、2022年3月18日、個人的な事情から入国ビザが発給できず、契約を破棄することが発表された(後任はラルフ・ブライアント[29]

選手としての特徴

打撃はパワーを持ち味とし、本塁打は多いが、三振も多い。キャンプでSSKが開発したヘッドスピードの測定器によって158km/hを計測したことからも分かるように特にバットのヘッドスピードが圧倒的に速く、芯でとらえた打球は他の追随を許さないほどの飛距離を誇る(バレンティンは151km/hだった)。また、本塁打を放ったときはすぐにバットを下に置く[30][31]。また、右方向にも3割近い割合で打球を運んでおり[31]、得点圏では安打狙いに切り替えられる器用さも持つ。また、意外にも左投手を苦手としている。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
2005 WSH 56 65 62 7 11 3 0 1 17 7 1 0 0 0 2 0 1 19 0 .177 .215 .274 .490
2009 中日 144 615 549 87 151 25 0 39 293 110 1 1 0 4 48 0 14 157 17 .275 .346 .534 .880
2010 134 561 493 71 130 21 0 32 247 86 0 0 0 2 57 3 9 158 13 .264 .349 .501 .850
2011 78 318 278 39 69 13 1 16 132 48 0 0 0 5 30 1 5 68 6 .248 .327 .475 .802
2012 96 359 311 44 77 10 0 24 159 65 2 1 0 3 40 2 5 84 5 .248 .340 .511 .851
2013 DeNA 134 558 483 74 161 22 0 41 306 136 1 1 0 4 62 6 9 118 10 .333 .416 .634 1.049
2014 85 333 311 32 88 14 0 17 153 60 0 0 0 0 18 4 4 91 5 .283 .330 .492 .822
2015 オリックス 52 189 165 13 32 1 0 9 60 24 0 0 0 2 21 1 1 53 2 .194 .286 .364 .649
2016 27 94 78 6 17 2 0 3 28 13 0 0 0 1 14 0 1 26 2 .218 .340 .359 .699
MLB:1年 56 65 62 7 11 3 0 1 17 7 1 0 0 0 2 0 1 19 0 .177 .215 .274 .490
NPB:8年 750 3027 2668 366 725 108 1 181 1378 542 4 3 0 21 290 17 48 755 60 .272 .351 .516 .868
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

内野守備


一塁(1B) 三塁(3B)
























2005 WSH 3 11 1 2 2 .857 5 0 3 0 0 1.000
2009 中日 141 1236 75 17 96 .987 -
2010 130 1056 83 14 87 .988 -
2011 71 625 28 10 49 .985 -
2012 87 660 33 4 51 .994 -
2013 DeNA 129 995 53 12 88 .989 -
2014 76 582 39 10 66 .984 -
2015 オリックス 16 118 11 1 8 .992 -
MLB 3 11 1 2 2 .857 5 0 3 0 0 1.000
NPB 650 5272 322 68 445 .988 -
外野守備


左翼(LF) 右翼(RF) 外野




































2005 WSH 9 9 1 0 1 1.000 2 1 0 0 0 1.000 -
2009 中日 - - 1 1 0 1 0 .500
MLB 9 9 1 0 1 1.000 2 1 0 0 0 1.000 -
NPB - - 1 1 0 1 0 .500
  • 各年度の太字はリーグ最多

タイトル

NPB
  • 首位打者:1回(2013年)
  • 本塁打王:1回(2009年)
  • 打点王:2回(2009年、2013年)

表彰

NPB
  • ベストナイン:3回(一塁手部門:2009年、2012年、2013年)
  • 月間MVP:3回(野手部門:2011年10月[11][12]、2012年5月、2013年3・4月)
  • 月間サヨナラ賞:1回(2014年9月)
  • セ・パ交流戦 日本生命賞:1回(2009年)
  • ホームランダービー優勝:3回(2009年第1戦、2013年第1戦、同年第2戦)

記録

MiLB

NPB

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:2012年6月5日、対埼玉西武ライオンズ3回戦(西武ドーム)、8回表に長田秀一郎から左越2ラン ※史上264人目
  • 150本塁打:2013年9月30日、対東京ヤクルトスワローズ24回戦(明治神宮野球場)、5回表に村中恭兵から左越3ラン ※史上159人目
その他の記録
  • 全球団から本塁打:2013年3月31日、対中日ドラゴンズ3回戦(ナゴヤドーム)、8回表に山井大介から中越2ラン ※史上25人目[32]
  • 月間14本塁打:2013年4月 ※DeNA球団記録
  • オールスターゲーム出場:4回(2009年、2010年、2013年、2014年)※2012年は出場辞退

登場曲

  • 「So Gangsta」Snoop Dogg(2010年 - 2011年)
  • ターミネーターのテーマ」(2009年・2012年)
  • 「Conto Los Cascabeles」El Alfa(2013年 - 2016年)

背番号

  • 28(2005年)
  • 42(2009年 - 2016年)

登録名

  • ブランコ(2009年 - 2012年)
  • T.ブランコ(2013年 - 2016年)

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 1981年生とする媒体もある。中日スポーツに「野球アカデミーに入るために年齢を低く詐称していた」との記事が載った。
  2. ^ 過去に2009年9月30日の読売ジャイアンツ戦(ナゴヤドーム)でこの年で現役引退した立浪和義が6番・一塁手でスタメン出場することになり、ブランコが4番・右翼手でスタメン出場した。
  3. ^ 中日が提示した金額は2年契約で1億8000万と2012年12月12日付の中日新聞朝刊で明らかにしている。

出典

  1. ^ “元中日ブランコの息子が米で有望株に 16歳で198センチ&104キロの巨漢”. Full-Count(フルカウント) 野球ニュース・速報・コラム (2021年8月28日). 2022年1月11日閲覧。
  2. ^ a b 東京中日スポーツ・2009年12月3日付 3面
  3. ^ 中日が“格安”外国人2人を獲得
  4. ^ 自由契約選手 NPB.jp
  5. ^ a b ホームランか、三振か、肉離れか――ナゴヤドーム初の天井直撃弾を放った規格外の大砲は/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】 週刊ベースボールONLINE 2021年3月13日(土) 11:02 (2022年11月3日閲覧)
  6. ^ “中日ブランコ初打席弾!森野、和田続いた”. nikkansports.com. 日刊スポーツ新聞社 (2009年4月4日). 2023年8月4日閲覧。
  7. ^ “ブラ砲、初打席弾 ドーム揺れた!しびれた!”. 中日スポーツ (CHUNICHI Web). 中日新聞社 (2009年4月4日). 2009年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月4日閲覧。
  8. ^ ブランコ選手が日本生命セ・パ交流戦「日本生命賞」を受賞! 中日ドラゴンズ公式サイト 2009年6月24日
  9. ^ “中日8連勝、ブランコ3ランで虎を粉砕”. nikkansports.com. 日刊スポーツ新聞社 (2009年7月12日). 2023年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月4日閲覧。
  10. ^ ブランコがキング独走38号、グラはカモ 日刊スポーツ、2009年9月30日
  11. ^ a b c “2011年10月度「日本生命月間MVP賞」受賞選手(セントラル・リーグ)”. NPB.jp 日本野球機構. 2023年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月4日閲覧。
  12. ^ a b c “ブランコ「万全」宣言!月間MVP弾みに4連破再現だ”. スポニチ Sponichi Annex 野球. スポーツニッポン新聞社 (2011年11月2日). 2023年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月4日閲覧。
  13. ^ 落合博満が今だから語る荒木雅博と井端弘和の二遊間コンバートの真意
  14. ^ 日刊スポーツ』2012年10月5日11時29分 中日ブランコ流出危機ソーサも?ソトも!?
  15. ^ 『日刊スポーツ』 守道監督、ブランコDeNA入りを公表!?
  16. ^ スポーツ報知』大阪版 2012年11月11日 高木監督、ブラ三振発言を愛妻に叱られ反省!…中日 ウェブ魚拓より
  17. ^ a b 2012年12月12日付 中日新聞朝刊27面(スポーツ)『ブランコDeNA入り 2年総額5億円で合意』より。
  18. ^ 『中日スポーツ』2012年12月29日号 生駒泰大「ドラ番記者 2012年12月29日 ブランコが去った。」
  19. ^ トニ・ブランコ選手獲得のお知らせ 横浜DeNAベイスターズ、2012年12月11日
  20. ^ “DeNA 守護神候補ソーサを獲得 初の3外国人同一球団移籍”. スポーツニッポン. (2012年12月26日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/12/26/kiji/K20121226004854950.html 2012年12月27日閲覧。 
  21. ^ “ブランコが止まらない! 5戦連発!2打席連発!”. スポニチSponichi Annex (スポーツニッポン). (2013年4月23日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/04/23/kiji/K20130423005669990.html 2013年4月25日閲覧。 
  22. ^ “CS残った!DeNA、代打ブランコ劇弾でサヨナラ勝ち!!”. SANSPO.COM (2014年9月16日). 2020年7月20日閲覧。
  23. ^ 2014年度 自由契約選手 日本野球機構オフィシャルサイト 2014年12月5日閲覧。
  24. ^ オリ ブランコとバリントンの獲得を発表 nikkansports.com 2014年12月6日配信
  25. ^ “8日復帰のオリ主砲ブランコまた抹消へ - 野球 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2022年9月19日閲覧。
  26. ^ ブランコ 右脚痛め抹消へ、右大腿二頭筋炎で3度目離脱スポニチアネックス 2016年9月20日配信
  27. ^ “自由契約選手|2016年度公示”. NPB.jp 日本野球機構 (2016年12月2日). 2016年12月3日閲覧。
  28. ^ “元・本塁打王のトニ・ブランコ氏が北海道独立リーグ「士別サムライブレイズ」監督就任 "選手も兼務"へ”. 北海道文化放送. (2021年12月12日). https://www.uhb.jp/news/single.html?id=25035 2021年12月12日閲覧。 
  29. ^ “元中日トニ・ブランコさん、ビザ発給できず独立リーグ監督を解任 後任は元中日&近鉄ブライアントさん”. 中日スポーツ. (2022年3月18日). https://www.chunichi.co.jp/article/436802 2022年3月18日閲覧。 
  30. ^ 小関順二西尾典文、泉直樹『プロ野球スカウティングレポート2010』アスペクトムック、2010年、76-77頁。ISBN 978-4-7572-1744-7。 
  31. ^ a b 『野球小僧 世界野球選手名鑑2011』白夜書房、2011年、90頁。ISBN 978-4-86191-710-3。 
  32. ^ ラミレス 大台2000本安打あと3 本拠地で決める - スポーツニッポン、2013年4月1日

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、トニ・ブランコに関連するカテゴリがあります。
  • 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
  • Tony Blanco stats MiLB.com (英語)
  • 個人年度別成績 ブランコ - NPB.jp 日本野球機構
 
業績
セントラル・リーグ首位打者
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
セントラル・リーグ本塁打王
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
セントラル・リーグ打点王
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
 
セントラル・リーグ ベストナイン(2回)
2012年 セントラル・リーグ ベストナイン
2013年 セントラル・リーグ ベストナイン